その日、八方尾根を目指して雪靴で登り始めたのは、まだ空が白み始めたばかりの時間だった。前日からの降雪で、登山道はふかふかの新雪に覆われていて、一歩進むごとに「さく、さく」という音だけが響いていた。
ガイドの山田さんは、終始落ち着いた足取りで先を歩いていた。「焦らず、呼吸を合わせて」という言葉が、今でも耳に残っている。息を切らしながらも、少しずつ標高を上げていくと、やがて木々がまばらになり、視界が開けてきた。
雪に覆われた針葉樹の森を進む
そして、尾根に出た瞬間だった。それまで吹いていた風が、不意にぴたりと止んだ。音という音が、すべて消えた。自分の心臓の音さえ聞こえるような、完璧な静寂。眼下には白い山並みが連なり、まるで時間が止まったかのような光景が広がっていた。
「こういう瞬間のために、この仕事をしているんです」とガイドさんは静かに笑った。下山するころには足が重く、体は冷え切っていたけれど、あの静寂だけは今でも鮮明に思い出せる。白馬の冬は、ただ厳しいだけではなく、こんな優しい瞬間も持っているのだと知った。